昭和四十三年八月二十六日 夜に御理解
今日午前中のご奉仕の時にある人のお届けをさせて頂いて、内容が内容だけに私はお届けさせて頂いてもう不安であった。あんな事は滅多にないような不安を感じた。まず、私はすぐ御神殿に向かった。私は普通の時に御神殿に出ることはまずないのですけれども、とにかく御神殿に出なければならないほど不安を感じた。それで御神殿に出さして頂いて拍手をさせて頂いた途端にもう頂くことがきれいな座りかごのお知らせを頂いた。御理解に私がね。ここに奉唱して折ると言うこと。奉唱するということにね、生きがいを感じ、又ここにありがたいと思うてここに座ることが有難いと考えておる時ならば、不安はない、心配はないと言うことです。もう本当にそれこそ、霜に煮え湯をかけるがごとくであった。私の心の中にいままで不安でたまらない思いであったのが、消えてなくなってしまった。とくにおかげを頂く道がまた、新たに開けてくるのであったから、そこで私は思うのにここにみんながお参りしてくるのにもうお参りをさせて頂くと言うことに楽しみというかね。楽しみを感じる又信心させて頂いていると言うことに生きがいを感じるような信心をさせて頂いておったら、皆さんの思うておられる心配やらは心配はないんということになる。どんなに不安なことがあっても、大変なことがあっても私がここに座っとるということに生きがいを感じる、喜びを感じる。それが、出来ておるならば、不安なことはなかった。心配はないということになる。これは私だけの事ではなくて信心頂いておるものはそうである。それぞれのたとえば、御用をさせてもらう。それぞれのたとえば、これは私の分担といったような御用をやっぱりみんながそれぞれに受け負わなければ、いけない。その分担がです。それをなさせて頂くということにありがたいものを感じる。生きがいを感じると言うような私は生活が本当の有難い信心生活である。そういう時には私はどんな倍医でも心配はいらんと思う。お参りさせて頂くと言うことがただお参りせんならんとか、習慣であったといった様なことではいかん。そこんところを一つみんなでわからして頂いて果して自分が頂いている御用がそこに生きがいを感じておるだろうか。御用として有難いものを感じておるだろうか。私達でもここでは、いつもかつも有難いと言うことはない。それは眠とうて眠とうて(テープきれる)ならば、それは私がここに座ることに生きがいを感じておると言うことを同じ意味に神様は受け取って下さると思う。それぞれの御用がやはり、実ないこともありゃー、嫌なときもあるかもしれん。けれども、そう言う時が大事にしなければ、いけない。金光様、金光様とおすがりさせて頂いて御用させて頂くような私が修行を続けていくならば、もう私どもが行く手、行く手に不安はない、心配はないと言うことが言える。今日私が頂いた体験、同時に頃は取次者だけではない。ここへお参りして来るものも家族のものもそれである。本当に朝晩のおつとめというのもただおつとめであっちゃあならん。さあ、もうご祈念の時間だからというてやっとかっとでてくることではいけん。やはり、神様と通う一時である。同時に頂く御理解を何とはなしに心弾んで頂かしてもらおうといったょうな意欲がある時には私は大丈夫。しかし、ないでもそれを本気でこれをしようと思うておる時にはまあ、神様はおかげをくださると思う。ですから、そういう修行をお互い本気でさせて頂かにゃあいかんと思うね。どうぞ。